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tsubameのイロイロ

おもったこと、きづいたこと、イロイロ

「幸せ」と「感動」のニュース報道の違い

家にテレビはあります。ご家庭によってはテレビを敢えて設置しない場合もあると思います。私もテレビのない生活もいいなぁ、と思いつつ、ついつい大好きなお笑い番組やバラエティー番組を見てしまいます。多分テレビ大好き世代なので、テレビを人生から取り上げることは難しいなぁ、と思っています。

テレビ番組において、情報を伝えるジャンルとしてニュース番組(報道番組)とワイドショーがあると考えます。ワイドショーって、報道なんでしょうか、バラエティーなんでしょうか。それとも「ワイドショー」っていう一つのジャンルなんでしょうかね。まぁ、どうでもいいか。
朝出勤して夜退社、土日祝休みの会社員なので、ワイドショーを見る機会はほとんどありません。そして申し訳ないですがワイドショーを見たくないので見ません。

この言葉には是非があると思いますが、ニュース番組はコメントがない限り「事実」を伝えてくれます。出来事は知りたい。ただし、そこにコメント(特にコメンテーターと言われる人々)が加わると、「事実」だけでなくそのテレビ局の(そしてその背景にある新聞社の)「意思」が加わります。これが嫌です。
出来事を認識するのは「事実」を聞いた受け手である視聴者の課題であり、それを「解説」程度ならいいのですが「コメント」されると「意思」が加わって、場合によっては「事実」すら曲げられてしまうことが多々あります。
これが嫌なのでコメンテーターのいる番組はあまり見たくありません。特にワイドショーを。

ちょっと題名と逸れたので本題に移ります。ニュースって時間の都合上、仕方のないことなのかもしれませんが、「不幸せなこと」の報道が多いですよね。「事件」を取り扱うのがニュース番組なので、それは仕方がないことだと思います。
キー局のニュースはほぼ事件を取り扱っています。「幸せなこと」だってたくさんあるはずなのに、これは日常であり当たり前のことだからニュースにならないのかもしれません。
ただ、「感動」を与えるような出来事(主にスポーツ)は報道されます。最近では将棋も扱われて、スポーツ以外にも焦点を当ててくれているのは良いことだと思います。視聴者の視野が広がることだと思っています。

「感動」はニュースになる。でも「幸せ」はニュースにならない。何でだろう。「感動」は見る人が想いを共感できるから報道として成立する。だけど「幸せ」は人それぞれであり、尺度がことなるから報道として成立しない、のかなぁ。
私は福井に住んでいますが、都市部の方以外はご存じの通り、キー局のニュース番組は途中で途切れて、続いて地方局のニュース番組が放送されます。私はどちらかというと地方局のニュース番組は好きです。地元の情報はより生活に密接に関わっていて重要、ということもありますが、それ以上に地方局のニュース番組は「ちょっとした幸せ」をきちんと放送してくれるのです。

「○○地区のこども園の園児たちが、季節の果物の収穫を行いました」みたいな。確かにニュースとしてはどうでもいい情報です。その情報が何かの役に立つかどうか、と言ったら役に立たないと思います。ただ、その放送で殺伐としたキー局のニュースの後に、どれだけ心が穏やかになることか。「幸せ」がニュースになる。これが普通になることが、本当に世の中が幸せになった証拠なんだろうな、と思います。

でも、人が「他人の不幸」を待っている限り、幸せのニュース報道は放送されないんでしょうね。