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tsubameのイロイロ

おもったこと、きづいたこと、イロイロ

信念と一貫性(その2、的な)

課題が明確であり、それに立ち向かっているときは自分の存在意義とか生きる理由とか、そういった小難しいことを考える必要はないと思う。考えている時間がない。まさに目の前に課題があるのだから、それを解決するために一生懸命努力すればよい。
くじける時もあるし、投げ出したくなる時もある。実際に投げ出したって、それはその人の判断なのだから、課題に対して何かしらの結論を出したことには変わりない。良いか悪いかといった二元論の話ではない。課題に向き合った結果だ。

悩ましいのは課題がぼんやりとしているときだ。目の前にひっ迫した課題がない場合や、課題であってもどうにかやり過ごせてしまう課題、いっぺんに考えるには大きすぎて圧倒されてしまい、思考が停止してしまう課題などがこの「ぼんやりとした」課題にあたると考える。
このような課題に直面したとき、何を頼りに課題に対して立ち向かったらよいのだろうか。現在の私はこれに悩まされている。

悩んだ末に気づいたことが表題とした「信念と一貫性」だった。
順番が逆になるが、一貫性のない信念を持って生活してしまっているから目先の課題に対応できていないんだなぁ、と思った。気づいた、といってもよい。

信念、というと頑固な印象があるが、そういうことではない。確かに信念を曲げないばかりに手段をも曲げず、周囲に迷惑をかけている人はたくさんいるし、私もたくさん見てきた。それは頑固といってもいいと思う。信念さえ曲げなければ、手段なんてどうでもよいと私は思う。結果として失敗しても自分が納得のいく状況になったり、自分が納得いかなくても成功したりすれば、それは信念を曲げなかった結果だと思ってよいと思う。

本当に手段なんてほぼどうでも良いと思っている。自分の力なんて限りがあるんだから、分からないことは聞くし、できないことは周囲の人に頼むし、心が折れそうになったり実際に折れてしまったりしたら、周囲の人に慰めてもらっていいし。
でも、信念に一貫性がないと、あっちにフラフラこっちにフラフラ。その結果としてうまくいってもいかなくても、どちらであっても自分は納得できないし手ごたえがない。そんな状況に陥っているんだなぁ、と思った。
信念自体だって変更したっていい。環境や状況が変われば信念自体も変化するだろう。でも、そこに一貫性がないと徐々に迷いが生じると思う。上記の悩みが再発する。

書いていたら一貫性って、自分を信じる、に近いのかな、とも思った。
自分を信じられなくなったとき、自分の人生の一貫性がなくなり、ふらつき、迷い悩み始める。これで行くんだ、と決める過程において、自分の過去を振り返ってその判断に人生における一貫性があるのか。それが明確であれば、悩むことはなく進むことができるのだろう。

ブログを150本以上書いて、楽しい時も面倒な時も苦しい時もあった。でも、書くことで自分を振り返ることができたし、書くという行為を自分が欲していたんだなぁ、アウトプットが自分の生きがいなんだなぁ、とつくづく感じた。
これからも何か書いていこうと思っている。その先に何があるのか、何もないのか分からないけど。でも、それが自分の人生の信念であり、これまでの人生における一貫性であるんだろうな、と気づき始めた。支えになったことは間違いないのだろう、多分。