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tsubameのイロイロ

おもったこと、きづいたこと、イロイロ

「自分へのご褒美」という言葉はいつから定着したんだろう。

今週のお題「自分にご褒美」

今は普通に使っている言葉である「自分へのご褒美」。これっていつから定着したんだろう。
そもそも「自分へのご褒美」って、違和感がある。学問は常識を疑うことから始まる。世の中の事象も当たり前だと思わず疑うことで新しい知見を得られると思う。今一度自分へのご褒美ってやつを考えてみよう。

まずは「ご褒美(褒美)」の定義について、新明解国語辞典より引用してみよう。

「褒美」
相手の好意をほめるに値するものだとして、奨励のために金品を与えること。また、その金品。

やはりご褒美の基本は他者からもらうもののようです。でも、他者から何かもらえることはあまりなく、良いことをしても金品としてもらえることはほとんどない。感謝の言葉はもらえることが多いと思うけど。
でも人間だから、苦労して何かを達成したら何か欲しい。でも他者からはもらえない。そうした時に生まれた言葉として「自分へのご褒美」があり、テレビ等で取り上げられて世に出回ったのではないでしょうか。
『自分へのご褒美とは』とyahooで検索して一番上に出てきた文章も引用してみます。
自分へのご褒美 - 日本語を味わう辞典(笑える超解釈で言葉の意味、語源、定義、由来を探る)

「自分へのご褒美」(じぶんへのごほうび)
 自分へのご褒美とは、自分自身に贈るプレゼント、賞与という意味で、要するに「自己満足」を具体化した行為であり、賞賛する他人に取り囲まれている自分を仮想するという点では「自己欺瞞」にも相当する。

 自分の努力に対して「自分へのご褒美」を強調したがる人は、①その努力が他人に認められないという客観的事実がある(つまり、努力が成果として現れない、要するにムダな努力であったかたいした努力ではなかった)か、②十分に認められていても本当は誰も自分のことなんか気にもとめていないのではないかという被害妄想傾向であるか、③認められていてもそんな評価のされかたでは不十分であるという自信過剰であるか、のいずれかであると推測される。

 近年「自分へのご褒美」として流行っているのが、バレンタインデーの「自分チョコ」だが、やや高級なチョコレート程度でご褒美になるというのだから、これは自他共に認める「努力というほどの努力もしていなかった」①のケースに当てはまると考えられる。(CAS)

あまり良いことへの説明ではないですね。「『自己満足』を具体化した行為」「『自己欺瞞』にも相当する」とバッサリ切り捨てています。

何かの為に頑張る、という行為自体は心理学的には行動を促進することなのですが、それが過剰になると依存性が生じるというところでしょうか。
何かの為に頑張るということは、その「何かの為」がなかったら頑張らない、ということに結びつきます。頑張ったら結果的に何かが付いてくる。結果は後からついてくるんだよ、的な発想の逆バージョンかなぁ、とも思います。

私が感じる「自分へのご褒美」という言葉への違和感は、「これだけ頑張ったんだから、少し贅沢してもいいよね。もしくはこれを買ってもいいよね」という言い訳に聞こえることです。堂々と買えばいいじゃん、と思うのです。「自分へのご褒美」なんていう言い訳しないで。自分で勝ち取った権利を堂々と行使する。何も他者に気を遣わなくてもいいんじゃないかなぁ、と思うのですが、それだと世間が許さないようです。ひがみみたいなものなのでしょうか。

さらに「自分へのご褒美」という言葉の裏には経済・各業界のステルスマーケティングが含まれているように感じてなりません。「少し高めのものを買ってもいいんだよ。自分へのご褒美だもん」という甘い誘惑。気持ち悪い。でも、それが経済。キャッチコピーをつけて売ったもん勝ちです。

ご褒美欲しさに行動する。動物か?もう少し理性持ちましょう。ご褒美に囲まれた結果、それが幸せに結びついているのかどうか。全てはそこに終着します。幸せだったら「ご褒美」と言わず報酬として手に入れればよいし、浪費できるお金を持ち合わせていないのであれば、まずは必死に働いて収入と貯蓄を得るところから始める。それが人間の美徳ってもんじゃないっすかね。