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tsubameのイロイロ

おもったこと、きづいたこと、イロイロ

山高ければ、谷深し(三部作、その3みたいなもの)

前回、前々回の続き。三部作として仕上げるために、最後にこの言葉で終わりにしようと思う。
「山高ければ、谷深し」
私の躁うつ病を背景にいろんなことを書いてきましたが、この病の大変なところはこの言葉の通り。山(そう状態)が高いと高いほど、谷(うつ状態)が深い。うつだけの場合は分かりやすい。谷底にいるのは本人も周囲も目に見えて分かるので、対応しようと行動を起こします。
問題はそう状態のとき。テンションが高く挙動がいつもと違うくらいであれば目に見えるのですが、そこまでではない程度、もしくは内面的に幸福感が強すぎる場合(これを「多幸感」と呼びます)は目に見えない。本人も気持ちいい状態が続くので、このままの状態を保ちたい、手放したくない、という気持ちに陥ります。
でも、この状態が永久に続くことはありません。あるきっかけでそう状態からうつ状態へと変化・下降していきます。それは山が高ければ高いほど下降の幅は大きい、もしくは大きく感じます。下降してからは後の祭り。
これを防ぐためには常に現状を把握することが大事です。山も低く、谷も浅く、常に中庸を目指して自らをコントロールすることが躁うつ病では最も大事な治療法となります。

躁うつ病を例にしましたが、何も「山高ければ、谷深し」は病気の人だけに当てはまるわけではありません。普通に過ごしている方々でも経験したことは多いと思います。人なので感じ方の多少があって、感じすぎる人が躁うつ病、そこまで感じない人は病気とまではいかない、といった感じだと解釈しています。性格の問題もありますが、躁うつ病うつ病うつ状態は誰にでもやってくることだと思います。

休日に楽しいことをして、ずっとこの状態が続けばいいのにな、と思うのですが、現実には生きるためのお金を稼ぐ必要があり、仕事をします。仕事をする理由=お金、だけではないですが、お金を得ることは仕事をする上で大事な理由の一つです。
ギャンブルでも勝ち続けると、このままずっと勝つのでは、と錯覚してしまうときがありますが、現実にはまぁそんなことはなく、元々胴元が利益を得る仕組みがギャンブルですから最終的には負けます。
バブル経済も同様で、上がり始め、もしくは上がっている最中に波に乗り、波の最中に利益を確定させないと、山が高ければ高いほどどん底も深いです。実体経済との乖離が激しい昨今では特に感じることですが。

適度なところでやめておく、ということが一番良いのですが、山に登っている最中はどこが頂上か分からないことがほとんどです。山頂を目指すことも大事ですが、分相応のところでやめておく、ということを覚えておくことが大事かと思います。それを知って行動に移すか移さないか、ということと、何も考えずに行動してしまうか、ということは、これまでに書いた「信念と一貫性」に関わってきます。自分を信じられなくなる可能性もあることなので、少しでも空き時間のある時に、スマホを触る手を止めてボーっと考えてみるのはいかがでしょうか。

信念と一貫性(その2、的な)

課題が明確であり、それに立ち向かっているときは自分の存在意義とか生きる理由とか、そういった小難しいことを考える必要はないと思う。考えている時間がない。まさに目の前に課題があるのだから、それを解決するために一生懸命努力すればよい。
くじける時もあるし、投げ出したくなる時もある。実際に投げ出したって、それはその人の判断なのだから、課題に対して何かしらの結論を出したことには変わりない。良いか悪いかといった二元論の話ではない。課題に向き合った結果だ。

悩ましいのは課題がぼんやりとしているときだ。目の前にひっ迫した課題がない場合や、課題であってもどうにかやり過ごせてしまう課題、いっぺんに考えるには大きすぎて圧倒されてしまい、思考が停止してしまう課題などがこの「ぼんやりとした」課題にあたると考える。
このような課題に直面したとき、何を頼りに課題に対して立ち向かったらよいのだろうか。現在の私はこれに悩まされている。

悩んだ末に気づいたことが表題とした「信念と一貫性」だった。
順番が逆になるが、一貫性のない信念を持って生活してしまっているから目先の課題に対応できていないんだなぁ、と思った。気づいた、といってもよい。

信念、というと頑固な印象があるが、そういうことではない。確かに信念を曲げないばかりに手段をも曲げず、周囲に迷惑をかけている人はたくさんいるし、私もたくさん見てきた。それは頑固といってもいいと思う。信念さえ曲げなければ、手段なんてどうでもよいと私は思う。結果として失敗しても自分が納得のいく状況になったり、自分が納得いかなくても成功したりすれば、それは信念を曲げなかった結果だと思ってよいと思う。

本当に手段なんてほぼどうでも良いと思っている。自分の力なんて限りがあるんだから、分からないことは聞くし、できないことは周囲の人に頼むし、心が折れそうになったり実際に折れてしまったりしたら、周囲の人に慰めてもらっていいし。
でも、信念に一貫性がないと、あっちにフラフラこっちにフラフラ。その結果としてうまくいってもいかなくても、どちらであっても自分は納得できないし手ごたえがない。そんな状況に陥っているんだなぁ、と思った。
信念自体だって変更したっていい。環境や状況が変われば信念自体も変化するだろう。でも、そこに一貫性がないと徐々に迷いが生じると思う。上記の悩みが再発する。

書いていたら一貫性って、自分を信じる、に近いのかな、とも思った。
自分を信じられなくなったとき、自分の人生の一貫性がなくなり、ふらつき、迷い悩み始める。これで行くんだ、と決める過程において、自分の過去を振り返ってその判断に人生における一貫性があるのか。それが明確であれば、悩むことはなく進むことができるのだろう。

ブログを150本以上書いて、楽しい時も面倒な時も苦しい時もあった。でも、書くことで自分を振り返ることができたし、書くという行為を自分が欲していたんだなぁ、アウトプットが自分の生きがいなんだなぁ、とつくづく感じた。
これからも何か書いていこうと思っている。その先に何があるのか、何もないのか分からないけど。でも、それが自分の人生の信念であり、これまでの人生における一貫性であるんだろうな、と気づき始めた。支えになったことは間違いないのだろう、多分。

一貫性がない、という言葉を今噛みしめる。(とりあえずその1)

これまでのブログでも自分の気持ちを吐露していますが、39歳にして自分の人生にぼんやりとした悩みや疑問を持っています。
何が自分にとっての幸せなのか。自分が躁うつ病で5か月休職してからの復職はうまく進んでいるのか。躁うつ病は一生の付き合いだろうから治ることはないとしても、どのようにこの病とともに幸せに生きていけるのだろうか。

休職中は支援センターを活用し、支援センターのスタッフの皆さんの力を借りてたくさんの心理学及び心理学的手法を学んできました。それを復職してからの実践で活かすことが大事なのですが、理論と実践というものはなかなか合致しないことが多く、というか実践は事案ごとに異なり、理論をそのまま適用することは難しいです。実践の中で理論の基礎を応用して対応する必要があります。それにはもう少し時間が必要なのでしょう。

自分にとっての幸せって何だろう、何だったんだろう。これからの自分は何を拠り所にして生きていけばいいんだろう。復職してからは、そう思う日々が続きました。過去の休職ではそこまで考えていなかったし、今までの人生でもそんなこと考えなくても楽しく幸せに生きていて、将来についても近い将来の目標はあっても遠い目標はぼんやりと持っていたような持っていなかったような。多分持っていませんでした。

さて、これからの人生をどう生きるか。それが問題だ。

そんな今、大学生の時に先輩から指摘された言葉が引っかかりました。この言葉は何度か引っかかっている言葉です。
いつも通り麻雀を打っていて、1つ上の先輩であり、同じ学部・学科の先輩が後ろで私の手筋を見ていました。手牌と捨て牌を見て、その局が終わって一言。

「お前の打ち筋には一貫性がない」

一貫性がない。
手牌と捨て牌を見ると分かります。麻雀というゲームは基本的に役と呼ばれる形を作るゲームです。そして4人が順番に一つずつ牌という四角いものを取って、どのような役になるか考えていきます。最初に配牌と言って13個の牌を受け取り、そこからどのような役を作るか考えます。作りにくい役もあれば作りやすい役もある。配牌がバラバラで役を作りやすかったり配牌からほぼ仕上がっている場合もある。
配牌という初期に方向性が決まっている時は方針が立てやすい。でも牌を取ったときに次はどうするか、それを決めるのは自分自身です。

手牌と取った牌。それは今の自分の状況と次の行動。そう重ね合わせられると私は考えています。
大体話はご理解頂けたと思います。幸せや目標を気にしなかった時代は一貫性のある生活を送っていたのだと思います。配牌・手牌が簡単だった。結婚する、子どもが生まれる、育てる、仕事に就く、仕事を覚える、仕事に慣れて成果を挙げる。40歳を前にしてそこまでは一貫性があった。
問題はこれから。考え・状況と行動に一貫性がない。だから迷う。自分って何だったんだっけ?自分の幸せって何だったんだっけ?ふと迷いが生じたときに人生の一貫性が無いから迷いが生じ続け、もがき苦しみ続けている。私はそう考えるようになりました。

長くなりそうなので、今日のブログは締めます。
人生の一貫性って何だ?これが次の課題です。

「自分へのご褒美」という言葉はいつから定着したんだろう。

今週のお題「自分にご褒美」

今は普通に使っている言葉である「自分へのご褒美」。これっていつから定着したんだろう。
そもそも「自分へのご褒美」って、違和感がある。学問は常識を疑うことから始まる。世の中の事象も当たり前だと思わず疑うことで新しい知見を得られると思う。今一度自分へのご褒美ってやつを考えてみよう。

まずは「ご褒美(褒美)」の定義について、新明解国語辞典より引用してみよう。

「褒美」
相手の好意をほめるに値するものだとして、奨励のために金品を与えること。また、その金品。

やはりご褒美の基本は他者からもらうもののようです。でも、他者から何かもらえることはあまりなく、良いことをしても金品としてもらえることはほとんどない。感謝の言葉はもらえることが多いと思うけど。
でも人間だから、苦労して何かを達成したら何か欲しい。でも他者からはもらえない。そうした時に生まれた言葉として「自分へのご褒美」があり、テレビ等で取り上げられて世に出回ったのではないでしょうか。
『自分へのご褒美とは』とyahooで検索して一番上に出てきた文章も引用してみます。
自分へのご褒美 - 日本語を味わう辞典(笑える超解釈で言葉の意味、語源、定義、由来を探る)

「自分へのご褒美」(じぶんへのごほうび)
 自分へのご褒美とは、自分自身に贈るプレゼント、賞与という意味で、要するに「自己満足」を具体化した行為であり、賞賛する他人に取り囲まれている自分を仮想するという点では「自己欺瞞」にも相当する。

 自分の努力に対して「自分へのご褒美」を強調したがる人は、①その努力が他人に認められないという客観的事実がある(つまり、努力が成果として現れない、要するにムダな努力であったかたいした努力ではなかった)か、②十分に認められていても本当は誰も自分のことなんか気にもとめていないのではないかという被害妄想傾向であるか、③認められていてもそんな評価のされかたでは不十分であるという自信過剰であるか、のいずれかであると推測される。

 近年「自分へのご褒美」として流行っているのが、バレンタインデーの「自分チョコ」だが、やや高級なチョコレート程度でご褒美になるというのだから、これは自他共に認める「努力というほどの努力もしていなかった」①のケースに当てはまると考えられる。(CAS)

あまり良いことへの説明ではないですね。「『自己満足』を具体化した行為」「『自己欺瞞』にも相当する」とバッサリ切り捨てています。

何かの為に頑張る、という行為自体は心理学的には行動を促進することなのですが、それが過剰になると依存性が生じるというところでしょうか。
何かの為に頑張るということは、その「何かの為」がなかったら頑張らない、ということに結びつきます。頑張ったら結果的に何かが付いてくる。結果は後からついてくるんだよ、的な発想の逆バージョンかなぁ、とも思います。

私が感じる「自分へのご褒美」という言葉への違和感は、「これだけ頑張ったんだから、少し贅沢してもいいよね。もしくはこれを買ってもいいよね」という言い訳に聞こえることです。堂々と買えばいいじゃん、と思うのです。「自分へのご褒美」なんていう言い訳しないで。自分で勝ち取った権利を堂々と行使する。何も他者に気を遣わなくてもいいんじゃないかなぁ、と思うのですが、それだと世間が許さないようです。ひがみみたいなものなのでしょうか。

さらに「自分へのご褒美」という言葉の裏には経済・各業界のステルスマーケティングが含まれているように感じてなりません。「少し高めのものを買ってもいいんだよ。自分へのご褒美だもん」という甘い誘惑。気持ち悪い。でも、それが経済。キャッチコピーをつけて売ったもん勝ちです。

ご褒美欲しさに行動する。動物か?もう少し理性持ちましょう。ご褒美に囲まれた結果、それが幸せに結びついているのかどうか。全てはそこに終着します。幸せだったら「ご褒美」と言わず報酬として手に入れればよいし、浪費できるお金を持ち合わせていないのであれば、まずは必死に働いて収入と貯蓄を得るところから始める。それが人間の美徳ってもんじゃないっすかね。

欲しいものは、一生かけて買います。

今週のお題「自分にご褒美」

何かをもらえる、ということになると大別して「モノ」か「コト」になると思います。
「モノ」は物質的なもの。洋服とかバッグとか本とか。
「コト」はサービス的なもの。エステとかマッサージとかご飯とか。ご飯はモノとコトの両方、もしくはその間かもしれません。嫌いな人と好きな食べ物食べてもご褒美にならんからなぁ。

自分では買わないけど、もらうと嬉しいものって結構ありますよね。お歳暮やお中元がそれに当たると思います。先日書いたブログの通り。
tsubame-chem8.hatenablog.jp

何が欲しいかなぁ。お金、は止めましょう。お金って、ご褒美じゃないし欲しいものでもないし。お金、っていう場合って、じゃあお金もらって何に使うの?というその次の段階の「何に使う?」がその人の本当に欲しいものであって、お金はそのための手段でしかないので。
貯金で幸せになる人もいますけど、貯金だって何か使う目的があるから貯金するわけだし。数字が増えるのが幸せなのだったらブログとか初めてPV(ページビュー)数が増えるのを見た方が幸せだと思います。貯金は減るけどPVは増える一方だから。
何度も何度も宣伝して申し訳ないですが、白河駅のブログが私的にプチバズリを継続していまして。これだけで現在1600PVくらいいってます。総PVの半分以上を稼いでいます。減らない貯金をしているみたいで嬉しい限りです。
tsubame-chem8.hatenablog.jp

何をご褒美にしようかなぁ。今欲しいものを列挙しよう。

  • ミュシャの絵画。ポスターでもリトグラフでもいいです。
  • BLAZEの自転車型電動スクーター。時速30kmまで出るとのこと。

portal.blaze-inc.co.jp

  • ホンダが発売した電気自動車、「HONDA e」。

www.honda.co.jp
でも価格が451万円で仕様が「RR」って。雪降ったら危なくて乗れない。
っていうかだいぶドラテクいるのでは?ディーラーの方に聞いたら予約分完売とのこと。物好きがいるんだなぁ。「RR」の車なんて…。フォークリフトかよ。スポーツカーだって「FR」なのに。

  • コムサデモードでパンツを3本くらい買いたい。おしゃれ用パンツがない。ユニクロで普段着用パンツを数本買ったが。
  • VOLVOの車。昔からの夢。
  • MINIのClubman。かっこいいなぁ、と思った。

www.mini.jp

…、ご褒美、まだまだ遠いなぁ。地道に仕事します。

布団のイロイロ

師走。朝。寒い。

早朝の外は暗いし、気温は低いし、布団の中は温かいし。なぜ布団から出なければならない。
いや、仕事に行かないとならないし、休みの日でもご飯食べたいし、ゴロゴロしていても一日がもったいないし。結局は布団から出るのですが、寒い。

結婚してから何度も布団を買い直しました。もはや趣味じゃないか、というくらい布団を買いました。お金が貯まっては布団を買う、くらいのペースだったような気が。
我が家はベッドではなく敷布団なのですが、マットレスと一緒に敷くか、敷布団自体を厚めのものにするか、マットレス等の下にすのこを敷くか、などなど。布団の購入の課題はその寝心地の良さとともに、湿気との戦いでもありました。

湿気。
私は地元は福島なので太平洋側の気候は分かります。冬の太平洋側は乾燥との戦いになります。湿度が低い。それに対して日本海側は冬の湿度は高いのです。だってずっと曇りか雨か雪ですから。水分満載。新潟に住んでいた当初、日本海側に住んで初めの頃はそんなことも知らず、どれだけ布団とフローリングをカビさせたことか。毎日毎日布団を上げても布団は水分でベットリ、フローリングは水滴がベットリ。除湿シートも買ってみましたが、アパートの隣が畑で、我が家がアパートの一階だったためか、湿度がめちゃくちゃ高かったです。

それと同時に子どもたちも幼かったので、布団の汚れ方が早くて…。思い返せば2、3年に一度は布団を買っていたような気がします。
仕方がないのですが、小さな子どもたちと一緒に寝るといろいろと汚れるんですよねぇ。育児は大変ですが、それも終わりのないトンネルではないですから。今育児に追われている皆さんも、数年経てば成長しますし。まぁ、成長したら成長したで心配は絶えないのですが。

話は布団に戻って。
今は福井に住んでいて、この地域、そしてアパートの一階に住んでいる我が家は湿度が高い。一部屋に一台、最も高い除湿器を置いて除湿しています。夏も水が溜まりますが、冬も溜まります。
現在の布団の状況は

  • 子どもたち:ニトリのすのこベッド+布団
  • 妻(フローリングの部屋で寝ている):ニトリのすのこ+布団
  • 私(畳の部屋で寝ている):布団

子どもたちも成長したおかげで布団を買い直す機会もなくなり、湿気問題も除湿器とすのこベッドとすのこのおかげで床に湿気が溜まらず、今のところカビ問題は抑えられています。

最初の自問自答に戻りますが、なぜ布団から出なければならないのか。それは自分が会社に行くため、と同時に大きくなっても自分で起きようとしない子どもたちを起こすため。そろそろ自分で起きて欲しいなぁ、と思うのですが、高校生まで母親に起こしてもらった自分が言える立場ではないので、今日も子どもを起こすのが一日の始まりです。

行列、好きですか?

以前私の父親は行列が嫌い、という話をしました。

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私も遺伝なのか、そういう環境で育ったからか、行列はそんなに好きではありません、でした。
でも今はそこまで嫌いではありません。嫌だなぁ、と思う行列の場合は単行本を持って行って読書するなど、対策を準備してから行列に臨みます。行列も楽しみの一つ、みたいな場合は楽しみながら行列の時間を過ごします。

行列の時間の認識が最近変わってきました。日々忙しく生活しています。そんな中で作った行列の時間を「ボーっとしていられる時間」と考えるようになりました。心理学の本で学んだことの一つですが、「ボーっとすること」はとても大切だそうです。物事を考え続けたり悩み続けても解決策を得られない場合があります。そんなときは一度考えていることを忘れて、もしくは横に置いておいて何も考えない。

何も考えない時間って、日常だとなかなか持てないじゃないですか。私はせっかちだしケチなので、何も考えない時間がもったいなくて。でも行列の時間帯であれば強制的に待つしかない。手元でスマホ触っていれば時間をつぶせますが、意図的に全てを遮断すれば、何かすることは不可能。行列の場合はその場にいないとお目当てのものやことができないので。そうすると自然と「ボーっとしている時間」を作ることができます。それがいいなぁ、と最近感じ始めました。

脳は何も考えないように頑張っても常に何か考えています。でも、意図して考えていると雑念が入るので、あまり良い案は浮かばないようです。これは個人の感想ですが。それであれば一旦考えることを止めて、休息してから再考してもいいなぁ、と思います。

日常とは異なる環境、それをどのように作り出すかは人それぞれの方法があると思います。
行列に並んでそれを日常とは異なる環境と思えば、並ぶことに対するイライラもなくなるし、行列後の楽しみは気が付いたらやってくるし、ボーっとしている分だけ脳を休ませて次の発想の原動力にもなるし。良いことづくめだなぁ、と思いました。